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藤原 重家(ふじわら の しげいえ)は平安時代中期の廷臣。左大臣・藤原顕光の長男。母は村上天皇の皇女・盛子内親王。容姿に優れ光少将とうたわれた。 == 生涯 == 左近衛少将を経て、長徳元年(995年)五位蔵人に補され、翌長徳2年(996年)には従四位下〔『蔵人補任』〕に叙された。 長保3年(1001年)には美作守に補任されるが、同年いわゆる「寛弘の四納言」(藤原公任、藤原斉信、藤原行成、源俊賢の4名)が陣座で朝政の議論をしている様子を目にして自らの非才を覚り、親友の源成信とともに園城寺にて出家して遁世する〔『古事談』『愚管抄』『今鏡』などによる。実際には、長保3年2月の時点では行成は蔵人頭であり、まだ議政官にはなっていなかった(他の3人は参議)ため、陣座で4人が揃って朝政を論じあうことがあったとは考えにくい(竹鼻績『今鏡(中)』講談社学術文庫、1984年)。〕。この報に接し、父の顕光は悲嘆に暮れたという。同じく近衛少将を務めて出家した寂源の弟子となった。没年含め、以後の消息は定かではない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原重家 (左近衛少将)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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